移動術でコラム07 [コラムTOP]

注:ここでいう「移動術」はParkour、Freerunnig、Art du Deplacementの全てをさします。

【原始人とFamily(2)】

前回のコラムで仮に定義した原始人は、当然のことながら現代人である我々とは様々な点で異なっていた。

文明が発展していなかったため、道具や生活用品も自然環境にあるものを手で加工したシンプルなものだったろうし、乗り物などもないため移動は歩きや走って行っていただろう。食事も現代ほどカロリーを摂取していたとは思えないし、調理・加工された食品よりも自然のままのものが多かっただろう。1日決まって3食ってこともないだろう。生活の中でどれくらいの運動が必然的に行われていたか、行動範囲はどれくらいだったのか、睡眠時間はどうだったか、他者との関わり合いはどの程度していたか、壁画などの芸術や超自然的なものへの信仰はいつどのように生まれたのかなど、あれこれ考えるとなかなか面白い。なにせ文字もない時代なので、調べてもだいたいのことしかわからないだろう。

そんな中で自分が気になったのが、原始人のコミュニティの大きさである。後期旧石器時代の発達以前におけるコミュニティの範囲は生活を共にするいわゆる「家族」という小さなものであった。そして発達以後その範囲が家族の外にも広がりコミュニティが大きく複雑になり、社会と呼べるほどものに発展していった。社会での活動は文明・文化を発展させ、色んな意味での豊かさを生んだ。そして同時にその発展が現代社会が抱える物質的・精神的・モラル的な諸問題を生むことにもなったのだろう。

トレーサーは国内外に関わらず、自分達のコミュニティのことを“Family”という言葉で呼びたがる。自分は最初これは「家族」というより「(一緒に物事をする)仲間」という意味で使っているんだなと思っていた。そしてその範囲が広いのか狭いのか、関係が浅いのか深いのかよくわからなかった。ただ今は、この言葉を使っている本人達がどう意識しているかは別として、自分は次のように解釈している。

「大きく複雑になって人間関係が希薄になってしまった現代社会、それに対する“Family”なんだ。そして、これは広くて深いコミュニティを指す言葉なんだ。」

(2013/02/28)


【原始人とFamily(1)】

自分は2008年に動画『A DAY OF FEW SPOKEN WORDS』の中で「原始人に勝ちたい」と発言している。今回はこれについてのいくつかある視点の一つから考えてみたいと思う。

まず「原始人」とは何かであるが、辞書辞典を引く限り有史以前の現生人類やネアンデルタール人以前の化石人類、または未開の生活をする人を指すようである。どれにしても「自然環境の中で生きている人」と言えるのではないだろうか。そう考えると以前考えた移動術の身体的な理念に基づく生活をしている人が原始人である。

次に原始人のこのコラムにおける仮の定義を「後期旧石器時代(約3万年前)前後の人類」としておこうと思う。まだかなり曖昧であるが、その部分についても考えることとする。

まず、なぜ後期旧石器時代なのかというとこの時代を境に我々現生人類(ホモ・サピエンス)は大きく発達した。身体ではなく、脳/知性や文化/社会が発達・発展した。そして、言語能力の発達や祖父母世代(生殖年齢の2倍)の年長者の割合が急増したのもこの時期である。おそらくこれら全てが相互に影響しあった結果、現生人類は現代文明/社会を築けるほど発達したのだろう。

また、旧人であるネアンデルタール人が絶滅したのもこの時代である。前述の現生人類の発達により、同等の発達が起こらなかったネアンデルタール人は脳容量/体格が勝っていたにもかかわらず絶滅したと考えられる。それ以前の身体的な発達の差をその根本原因とする説もあるがそれはまた別の機会に書こうと思う。

正直に言うと、ここで想定すべき原始人が前述の発達直後の現生人類なのか、それ以前の現生人類なのか、またはネアンデルタール人なのかが自分の中でまだ明確になっていない。身体的には発達前後の現生人類を一緒に考えてよいのだが、精神やモラルを考えた場合どちらを想定するのが適切なのかがわからない。ネアンデルタール人に関してはおそらく考えなくても良さそうなのだが、何かが引っかかるので今の段階では想定外とはしないこととする。

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「理想のトレーサーとは、原始人のことかもしれない」(no_position)
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(2013/02/23)
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参考資料:
「知性とは何か」
「祖父母がもたらした社会の進化」(日経サイエンス 2011年12月号)


【文化と継承】
Twitterに書いたものを再編。

2012年末から翌年始にかけて開催されたJUMP4JAPAN前後の数日間で他のトレーサーと話して感じ考えたこととして、PKTKが2007/6以降にした経験や得た知識を多くの人がこれからしたり得たりしていくんだろうなというのがある。

もちろん、PKTK以外の日本のトレーサーも既に通ってきた場所でその時期はバラバラだったかもしれないが、その場所を今から皆がいっせいに通っていくのだろう。そのいくつかの通るべき場所の最初が今回のJUMP4JAPANだったのではないか。要はPKTKで言えばParkour Generationsに会ったときの場所である。そういった意味でも当日のワークショップや座談会の動画やレポートは凄く価値がある。おそらくJUMP4JAPANに参加してない人もそれらによって同じ場所に行くことができるのだから。

しかし、さらに次の場所に行くには当然いくつかの要素や経験・知識が必要になってくる、それらを自分で得ることができる人もいれば、そうじゃない人もいる。運的な要素もあるので運が悪いと次の場所にいけない場合がある。では皆が次の場所に行けるようにするにはどうしたら良いのか。本当は自分で考えて調べて経験して感じるのが一番良いのだけれど、それだと今までと変わらなくなってしまう。なので既にその場所を通ったトレーサー達が道を示すなり何か方法を考えたほうがいい。ただ道を歩くのは自分の足でしっかりと、ワープはよくない。

つまり何が言いたいのかというと、今まで問題だったのは既に通ったトレーサー達の経験や知識が効率よく伝播してなかったのではないかということである。かなり近くで実際に会って話して一緒にトレーニングしてるトレーサー同士ならちゃんと伝播するので問題はないだろう。ただ、文章や動画にしたりという一方的、断片的な情報で伝えようとするとどうしても勘違いや意図とは違う解釈が生まれてしまう場合がある。しかも各々がそれぞれ別の捉え方をする。これは実際会って話しても起こるので情報だけで伝えるってことは凄く難しいことなのである。情報のみでしっかり伝えるためには話し手を選ぶし聞き手も選ぶ。

具体的に何をすればいいっていうのは正直なところわからない。でも、その必要性に気づいてる人やそのために何かを始めようという人たちがいるのは確かである。しかし前述したように伝えるってことは凄く難しい。しかも今だけの話ではない。

これから先、何年、何十年・・・後のトレーサーにも伝えていくことが必要なら、パルクールを本当の意味での「文化」にしなくてはならない。文化にはルーツがありその歴史と先人たちの経験や知恵が埋め込まれている。そういう文化としてのパルクールを有形か無形か両方かはわからないが残しておくことも今を生き、パルクールに関わっている人すべてのやるべきことなのではないだろうか。

実は今までも意識せずやってきてるのだけど、これからは意識して文化を残していくことも大切だと思う。そのときに大事なのはお互いの相互理解で、各々のパルクールをそれぞれの形で文化として残していくのも良いが、理想を言えば「共通した何か」を文化として残しておくことも必要なのではないか。そして、「その共通した何か」こそがパルクールそのものと言えるのだろう。

それが何かはまだわからないが、それを見つけるためにはまず各個人が自分の中で自分のパルクールを完成させること。そしてその後で皆で共有し話し考え感じて、その中からその文化として残した方がいい「共通した何か」としてのパルクールが見えて来るんだと思う。

ここまで書いてきたことはどちらかと言えばいろんな場所を既に通ったトレーサー達、つまり伝える側への想い。次に書くことは、これからいろんな場所を通るであろうトレーサー、つまり伝えられる側への想いであり、前を行く人もさらに先に行くためにいろんな場所をこれから通るわけだから自分も含めたそういう人たちへの想いでもある。

まず言えることは焦らないで欲しい。焦りは嫉妬や失望といった負の感情を生むし、それはあまり良くないつらい経験を引き起こす。通るべき場所があるように、通らないほうがいいかもしれない場所もある。前を行く人達の成功や失敗に学んで欲しい、真似するという意味ではなく彼らの経験を知って判断して自分で決断して欲しい。そのためにはいい意味で謙虚になり、ルーツや歴史を知ることが大切で、色んなトレーサー特にパルクール歴の長い人と会って話したり一緒にトレーニングすること、長く時間を共有することが重要となる。それは多くの経験と知識を吸収できるから。そして何度も言うが、それらについて考えて昇華するのは自分だ。

今までの話と少し矛盾するかもしれないが、私個人の考えとしては必ずしも皆が同じ道で同じ場所を通っていく必要はないと思う。ただ、そういう道そういう場所があることは知っていて損はないわけだ。知っていて考えた上で別の道や場所を選ぶのを否定するつもりはない。ただ、知らなかったり考えずに別の道や場所を選んであとで後悔することだけは出来ればして欲しくない。そして、たとえ後悔したとしてもそこで諦めず時間がかかっても良いから自分としっかりと向き合い、改めて道を見つけ次の通るべき場所を目指して欲しい。

最後に、今は伝えられる側の人も、いずれ自分も伝える側になるっていうことを頭の片隅でもいいから覚えておいて欲しい。そうやって何世代も受け継いでいくことも文化としてのパルクールの一つなんだから。そして、それが前を行く人たちへの恩返しであり、パルクールへの恩返しになる。

(2013/01/04-05)


【運動技能について】

運動技能は「最小の時間、最小のエネルギー、最大の確実性で最適な結果をもたらす学習された能力」と定義されている。技能は一般的に「技術」という言葉で表現されることが多いが、厳密には技術は「運動を行うための理想的な方法」でありそれだけでは単に知識である。そして、技術に基づき実際に運動を行うために身に付けた能力が技能である。そして運動技能には身体的な能力だけではなく、意欲や判断力などの精神的な能力も含まれる。

運動技能の体得の段階は、以下の3段階に分けられている。
1.認知段階:
運動の方法(技術)を理解する。主に視覚を活用する。熟練者の動作を見たり、自分が動く場面をイメージをし、実際に動作を行ってみて自分の身体の動きを観察する。まだ動作が上手くできない段階。
2.連合段階:
視覚への依存が減り、自分の姿勢や動作を見なくても感じ取れるようになる。動作をくり返し、修正していくことで上達していく段階。
3.自動化段階:
技能が限界まで向上し、特に意識しなくても安定して動作を行えるようになった段階。この段階になると意識するとかえって技能を十分に発揮できないこともある。

次に、技能と覚醒水準について考えてみる。通常、技能が「自動化段階に達している」場合は覚醒水準が高いほうががその能力が十分に発揮される。ただし、動作が複雑すぎたり過度に高い覚醒状態ではこれに当てはまらなくなる。一方、技能が「自動化段階に達していない」場合では覚醒水準が低い状態の方が優れた技能を体得/発揮できる。

ここでひとつ分かることがある。「競争性」や「観客がいる事」によっても覚醒水準が高まるのだが、そうするとこれらが運動技能に与える影響が熟練者と初心者では違うということである。移動術の実践者の中には競技やパフォーマンスに対する懸念を示すものが多いが、身体教育という観点で考えると、これらが運動技能の体得にとっていい影響を与えないということも理解できる。また同様に身体/精神に関してだけで言えば、熟練に達した者にとって競技やパフォーマンスが必ずしも良くないものであるとは言えないことも確かである。

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Hebertは競争やパフォーマンスに重点を置くことで
競技スポーツが、身体教育から身体的発達目標や
健全なモラル的価値を育てることを奪ってしまったと信じていた。
英語版Wikipediaより 筆者訳)
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(2012/10/25)
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参考資料:
『スポーツ心理学入門』マット・ジャーヴィス
『スポーツ心理学辞典』日本スポーツ心理学会
『最新 体育・スポーツ理論 改訂版』高橋健夫他


【呼吸と覚醒水準】

運動時における呼吸は身体と精神の両方に大きくかかわっている。
身体的な面で言えば、全身持久力は酸素を摂取する能力つまり呼吸(と循環器)が大きく関係している。運動に使われるエネルギーの生成、老廃物の分解が体内で行われる際に酸素が使われている。また呼吸が乱れるとどんな動作においても、必要な運動能力が十分に発揮できないのも確かである。

そして身体だけでなく精神的な能力を発揮するためにも呼吸が重要になってくる。身に付けている能力/技能を最大限に発揮するには適切な興奮状態(覚醒状態)である必要がある。運動の種類によって最適な水準は違ってくるが、覚醒水準が低すぎると体が重く感じたり気持ちが萎縮してしまう、逆に覚醒水準が高すぎると緊張で体が動かなかったり冷静に物事を考えられなくなってしまう。また最適な覚醒水準で身体的にも精神的にも持てる能力を最大限に発揮できている状態が、「ゾーン」などと呼ばれているものである。

この覚醒水準をコントロールする方法の一つとして呼吸法が有効である。高い覚醒水準が求められる場合や運動前のウォーミングアップでは短く速い呼吸を繰り返すことなどを行う。また逆に高すぎる覚醒水準を下げたい場合やクーリングダウンではゆっくり深い腹式呼吸を行う。

実際に移動術の実践者が何か難しい動作に挑戦するときなどに、呼吸によって覚醒水準をコントロールしている場面がよく見られる。

覚醒水準をコントロールするには呼吸以外にもさまざまな方法があるが、こういったことを意識的にまたは無意識にできるようになることも、高い運動能力や強い精神力を身に付けるのに必要なことではないだろうか。

(2012/10/22)
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参考資料:
『スポーツ心理学辞典』日本スポーツ心理学会


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