移動術でコラム04 [コラムTOP]

注:ここでいう「移動術」はParkour、Freerunnig、Art du Deplacementの全てをさします。

【移動術の普及】

移動術が世の中に普及するとは具体的にどういうことなのか。
単純に実践者の数が増ることだろうか。メディアへの露出が増えて、その存在自体が一般に広く知れ渡ることだろうか。それとも、移動術についての正しい知識や考え方が広まることだろうか。

自分の考える普及とは、まず移動術を始めやすい環境ができること、移動術を続けやすい環境ができることだ。そして、それは既存の実践者にとっても移動術をやりやすい環境になるだろう。実践者が国内外のどこに行っても、その場所に移動術を楽しめる環境が整っている。そうなったら普及したってことなんじゃないだろうか。

数年前に比べれば実践者は確実に増えている。具体的な数はわからないが、練習会の参加人数やネットで検索してみればそれは明らかである。ただ、以前と変わらないこともある。始める人に対する続ける人の割合が依然として少ないのである。練習会でも一回だけ来てそれっきりという人が結構多いし、ネット上でもブログなどを開設して活動記録をつけていた人がいつの間にかフェードアウトしていたりする。

練習会については知らず知らずの内に初心者の入りにくい雰囲気になっていたりと、主催している側/常連になっている参加者にも原因があると思う。全ての練習会がそうではないが、必ずしも誰もがすんなり溶け込めるというわけではない。

移動術を始める人数が増えるかは、はっきり言ってメディア次第だと思う。移動術を知る人数が増えれば、それに比例して始めたいという人数が増える。自分たちにできることは、その中で続ける人の割合を増やしていくことだ。そしてそれが一番重要だと思う。

(2009/06/22)


【組織と繋がり】

昨日、World Freerunning & Parkour Federation(WFPF)という組織の存在を知った。
日本語に訳すと、「世界フリーランニング&パルクール連合」といったところか。この組織はこのスポーツとその哲学を広めるために、世界のトップレベルが集まってできている。 WFPFはチームというわけではなく、他のチームに所属している人や個人で活動している人が集まった組織らしい。とにかくメンバーが凄いので、PK/FR界では知らない人がいないくらいの組織になるに違いない。

現在、日本のPK/FR界に全国的な組織は存在しない。各地域だけで考えれば、それなりに大きなチーム/組織はあるが、全国のトレーサーが集まってできたというものはない。
かつて「日本パルクール協会(JPKA)」というものが存在していた。2004〜2005年に活動していた様だが、今は解散状態だ。自分はこの時期はまだパルクールに関わっていなかったのでその活動がどんなもので、日本のパルクール界でこのJPKAがどういう存在だったのかはわからない。しかし、WebArchiveにその痕跡が残っている。(※ただし、2006年以降はパルクールとは関係ない別組織のHPになっている。)これを見る限り、ブログ形式のサイト運営が主な活動だったのだろう。会員名簿をみると100人以上のトレーサーが登録していたようだ。 以前、このコラムで紹介した「JPKA Photo Battle」についてもその様子がわかる。また、メディアや海外トレーサーからの連絡の窓口にもなっていたようである。

しかし、2005年後半になると管理者(会長)が忙しくなりサイト運営が難しくなっていったようだ。WebArchiveに残っているブログの最後の方には、ドメイン更新期限が近づいていること、そして誰かJPKAを引き継いでくれないかというエントリーがある。ブログのコメント欄がWebArchiveに残っていないので引継ぎ手の候補がいたのかどうかもよくわからない。そして、2005年10月頃にドメイン失効とともに消滅してしまったようだ。

そして現在まで、自分の知る限りJPKA以外に全国的な組織はひとつもできていない。果たして今の日本に全国的な組織は必要あるだろうか。もし必要だとして、しっかりとしたものが作れるのだろうか。組織とはいわないまでも何か形のある、全国の実践者同士が現実で繋がれるものが欲しい。年に一回くらい、全国のトレーサーが集まるような大きなJAMを開きたい。そこでみんなで一緒に動いたり、PK/FRについていろいろ話したりしたい。トレーニング、動きの技術、知識、考え方、時間を共有したい。

そのために自分には何ができるだろうか。

(2009/05/31)


【移動術の楽しさ】

先日、大阪に遠征した際にインタビューに答える機会があった。「パルクールのいいところは?」との質問に対して自分はこんな風に答えた。

「幅広い年齢層、国や文化を問わず様々な人たちが一つのものを一緒に楽しめるところ。そして、そこでのいろいろな人との交流はこれからの人生でも役立つ経験になると思う。」

よく考えたらこれは移動術に限らず他のスポーツ、その他の文化活動にもいえる事だ。でも自分にとっては移動術の楽しさは特別なものに見えてしまうのだ。

年齢、性別、文化を問わず感じられる移動術の楽しさは、言ってみれば本能的なものなのではないだろうか。世の中にはいろいろな楽しさが存在するが、その中には元々人間が持っている本能的な楽しさと、文化の中で生まれた社会的な楽しさがあるように思う。子供の頃は本能的に楽しさを多く経験し、大人になるにつれて社会的な楽しさを経験するようになる。

移動術は一般的なスポーツと違い明確なルールの上に成り立っているものではない。そして多くの人が子供の頃に誰に教わるでもなく同じようなことをやった経験がある。移動術は人間が作ったスポーツというより、元々そこにあったものを人間が発見してできたスポーツだ。そしてそこに何かしらの意味を持たせ、名前をつけ発展させてきた。

だから、移動術の楽しさは本能的なものなのだ。子供の頃と変わりなく、心から「楽しい」と感じられる。そういう魅力を移動術は持っている。

(2009/05/20)


【移動術で「強く」なれるのか】

最近、Stephane Vigrouxのインタビュー動画の影響で移動術、特にArt du deplacementの本質は「強くなること」という考え方が知られてきているように思う。
この「強い(Strong)」という言葉自体は、2007年にParkour Generationsが既に日本に伝えていた。しかし、その言葉のもつ意味や本質、「強さとは何か?」ということまでは教えられていなかったように思う。おそらく「強さ」とは他人から「強さとはこういうものだよ」と教えてもらうものではないのだろう。トレーニングなどを通して一人ひとりが感じ取り、身に付けていくものだと思う。

自分も最近になって「強さ」とはなんだろうかと考えるようになったが、肉体的というより精神的なことであるということ以外はボンヤリとしか見えていない。今現在の自分のイメージをあえて言葉で表現するなら「人間としての正しさ」だろうか。これについてはまた機会があれば自分の考えをまとめてみたい。

また、なぜ移動術を実践すると人は強くなれるのかという疑問もある。単に障害を跳び越えたり攀じ登ったりするという、移動術の動きをすることで強くなれるのか。いや、それは違うだろう。「強さ」とは日々トレーニングを行い肉体/精神を鍛錬するからこそ得られるものだ。

そして、こうして得られる「強さ」とは移動術だけが持つものではないはずだ。世の中のあらゆること、他のスポーツや芸術などを通しても得られるものだと思う。どんな分野でもその道を究めようとすればなんらかの肉体や精神の鍛錬が必要になる。その鍛錬を通して「強さ」を身に付けたなら、それは移動術を通して身に付く「強さ」とその本質は変わらないのではないか。

「強さ」を考えたとき、移動術は決して特別なものではない。数ある「強くなるための手段」のひとつに過ぎないのだろう。

(2009/05/09)


【FR世界選手権と競技化】

先日、ロンドンで行われたフリーランニング世界選手権について考えてみる。
この大会の一般的な評価はかなり悪いようである。その理由として「商業主義的なものが見える」「大会の競技内容のレベルが低い」ということが言われているようだ。しかし、私はこの大会の持つフリーランニングの発展に対する意味は大きいと思う。今回のみを見れば確かに成功と言えない部分も多いだろう。だがそこから今後に活かせるものも得られるはずだ。もし今後も毎年行われていくならば、今回の大会に対する正当な評価(良し悪しにかかわらず)が与えられるのは数年後になるだろう。

まず商業主義に対する問題だが、資本主義社会の中で何かが発展していくという時にお金が絡んでくるのは仕方がないことだと思う。ただ、それが本来の目的より優先されてしまうのが問題なのだろう。もし移動術でお金を稼ぐこと自体が悪だとするならばYAMAKASIが映画に出演したときに移動術の理想は崩れ去っていることになる。要は「移動術を発展させるために利益も得る」のか、それとも 「利益を得るために移動術を発展させ利用する」のかが問題なのだろう。また今回の大会が映画、CMなどの既存の媒体に乗っかるという形ではなく、フリーランニングそのものでビジネスとしてとして成り立たせようとした意味は大きい。

次に内容のレベルが低いということに関しては、出場していたフリーランナーが世界のトップを揃えたわけではないということと、大会が第一回で成熟していないことが大きいだろう。世界のトップが出場していないのに世界選手権を名乗るのはどうかという意見もあるがそれは考え方の問題である。「世界選手権で優勝する」ことと「世界一の実力を持っている」ことは同義ではない。世界選手権はあくまで“大会に出場した”フリーランナーの中での一番を決める大会だ。これはほかのスポーツでも同じことだ。ボクシングなんかはいくつもの世界タイトルがある。オリンピックでも「誰が出ていなかったから」などという理由で金メダルの価値が下がることはない。あくまでその大会に出場したものの中での一番なのだから。

ただ、今回の大会がレベルが低いと言われる原因はもっと他のところにあると思う。それは各出場者が見せることのできたパフォーマンスの「完成度」が低かったということである。原因として以下のことが考えられる。

 (1) 実力以上のものを見せようとしていた
 (2) 出場者が用意されたセットに慣れていなかった
 (3) 用意されたセットがFRに最適ではなかった

(1)に関しては、「競う」ことの弊害だろう。移動術はよく競ってはいけないと言われる。今回はこの意味がよくわかる大会だったと思う。競い合うということは、他の出場者より上のパフォーマンスをし合うということになりがちだ。それは時に実力以上のことをすることにつながる。
FRなどの単純に数字では優劣をつけられないスポーツは、競い合うというより自分が日々のトレーニングで身に付けた技術を使い、完成されたパフォーマンスを「比べ合う」べきである。そうでなければ「やってみたら運よくできたこと」の比べ合いになりかねないからだ。
このことは他のスポーツを見ていても思う。フィギュアスケートの大会でもほとんどの選手が何かしらのミス(転倒)をしてる場合がよくある。これは実力以上のものを出そうとしたということが大きいのではないか。完成度の低い一か八かのパフォーマンスを競い合うことに果たして意味はあるのだろうか。ただでさえ危険だと思われやすいフリーランニングでそんなことをしていたら、芸術どころか本当に「命知らず」の大会という評価になりかねない。

(2)に関しては、実際の大会の映像を見て思ったことだ。出場者の動きがどこかぎこちなく、戸惑っているように見えるのだ。キレもなく、単発トリックの連続でFlowとは程遠いパフォーマンスが多かった。事前にあのセットで練習はしなかったのだろうか、全部アドリブ(即興)だったのだろうか。移動術の本質を考えると即興であることも大事だろうが、今回の大会をみるともう少し事前にやること、Flowを決めておいて必要ならリハーサルをすべきだったのではないか(やっていたのかもしれないが・・・)。フリーランニングとしてもエンターテイメントとしても中途半端で、出場者も観客も誰も得をしない状況になっていたように思う。

(3)に関しては、もっとも商業主義の弊害を感じた。まず観客に見せることを想定してステージの上で行うのが前提でセットが組まれている。フリーランニングは屋外の既存の構造物を障害物にして自由に移動するものなのだから室内の限られた範囲でしか移動できない状況で、パフォーマンスをみせろというのは酷である。できれば屋外の広範囲にわたって、既存の構造物を利用したセットで行ってほしかった。
あと安全対策は最低限のマットなどにして欲しい。今回のフカフカマットはかなりいただけなかった。 あれも(1)の実力以上のことをやってしまう原因になっていたと思われる。

最後に、今後フリーランニングが競技化を目指すならば、スキーのモーグルのような形がいいのではないかと思う。
モーグルの採点方法は以下の通りである。(Wikipediaより引用)

 ・ターン点 満点15.0(全体の50%)
 ・エア点 満点7.50(全体の25%)
 ・スピード点 満点7.50(全体の25%)

これをフリーランニングに置き換えると

 ・フロウ点
 ・トリック点
 ・スピード点

となるだろう。スタート地点とゴール地点を決めて、その間の移動の中での
「全体としてFlowが組めいているか」
「一つ一つのトリックの難易度、完成度」
「ゴールまでのタイム」
をそれぞれ点数に換算して採点し競い合う。それなりに広い競技スペースになるが、観ている方もなかなか面白いと思う。イメージとしてはLeviが第21回SASUKEの1stステージでみせたパフォーマンスのようなものだ。

今後フリーランニングの競技化が進むのか、止まるのか、別の形を模索するのかはわからないが、移動術の発展の仕方の一つとしてどうなっていくのか楽しみである。

(2008/09/22)


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