移動術でコラム03 [コラムTOP]

注:ここでいう「移動術」はParkour、Freerunnig、Art du Deplacementの全てをさします。

【移動術はスポーツか】

移動術は「スポーツ」と呼べるのだろうか。
自分はある時期まで移動術、特にパルクールをスポーツと呼ぶことに抵抗があった。なぜならパルクールの最終目的はあらゆる場面で効率よく移動する技術を習得することで、それは事前に用意された場所、決められたルールの下で行うスポーツとは違い、それよりももっと実践的で実用的なものだと思っていたからである。

しかし、現在では移動術はスポーツであると考えている。なぜなら移動術は実践的な側面だけでなく、多角的な普及の仕方をしているからである。特に海外では普通のスポーツと変わらない形で広がりつつあるようだ。

日本での「スポーツ」という言葉の一般的なイメージは、

 ・勝敗のある運動競技
 ・遊戯、娯楽、体力づくりを含む体育全般

などであるが、「sports」という言葉はもともと身体運動に限らず「余暇運動、楽しみ、遊び」全般を指していたようである。 例えばレジャーやボードゲームなども「sports」に含まれる。スポーツの持つ競技性はどちらかといえば、後から付いてきた性質といえるのだろう。そういった意味でも「競うものではない」と言われることもある移動術もスポーツであると考えられる。
そして何より「楽しみ」という点ではまぎれもなくスポーツである。

(2008/09/17)


【移動術家の視点】

「移動術を始めて何が変わったか?」と質問に対してほとんどの実践者が「街の見方が変わった」と答えるだろう。 移動術を楽しむ者にとっては周囲に存在する構造物すべてが障害物だ。 普段の生活の中でも「これをどう跳び越えるか」「この壁のグリップはどうだ」「ここからあそこへ行くのに一番いいFlowは・・・」などと考えながら街を歩いてしまう。ある人の言葉を借りれば「街が遊園地になる」のである。 この視点を手に入れてしまったら、もう元の視点には戻れないだろう。自分も1年近く移動術から離れていたときもこの視点だけは失わなかった。このモノの見方の変化こそ移動術の最大の魅力なのかも知れない。本来の見方にとらわれず、子供のように純粋に楽しむための視点だ。
こういう視点を持つということが、移動術がよく哲学に例えられる理由になっているのかもしれない。

そして最近、視点についてもう一つ気になることがある。 移動術が上手い人は、動画などで実際の動きを見る時にどこに注目しているのかということだ。他人と動画を一緒に見ていると、時々自分が注目している点と他人が注目している点が違うことがある。自分が見落としているような点に注目していたりして、とても参考になる。だから特に上手い人と一緒に動画を見るときは、その動画を解説してもらいながら見たいとさえ思ってしまう。ただ動画を見るだけよりずっと役に立つし、自分のトレーニングに反映しやすくなる。
だからブログなどで動画を紹介する場合でも、「すごい」「上手い」など抽象的な感想ではなく具体的にどこに注目してどう凄い(もしくはどう凄くない)と思ったのかを出来るだけ書いて欲しい。そして自分にもその視点を共有させて欲しいのである。

(2008/09/14)


【フリーランニングとパルクールの差を考える】

いくつかある移動術のジャンル/呼び名の中で 「フリーランニング」「パルクール」の二つがよく知られている。 この二つの基本的な違いについては「PK/FRとは」を読んでもらいたい。 読んでもよくわからないという場合は、他のサイトの説明や動画を見て理解するのがいいだろう。 今回はこの二つの本質的な違いではなく、そこから派生する二次的な違いついて考えてみたい。

まず、そのパフォーマンス性の差によるメディアとの関係である。 PV、CMなどのメディアまたは何かの一般向けのイベントで移動術が使われる場合、 ほとんどの場合で「フリーランニング」が使われるであろう。 もちろんパルクールもフリーランニングの一部に含まれるため、 両方使われることになるわけだが、 ここで言いたいのは見た目重視のアクロバットを排除した 「パルクール」に範囲を限定する必要性がないということである。 PV、CMという受け手側(視聴者)の大半が移動術をよく知らず、 必ずしも意図して目にするわけではないメディアでは一目でわかる派手さ、インパクトが重要であり、 パルクールの「移動効率」という一目では分かりづらい魅力が必要とされる場面は少ないのではないか。

世の中に知られるということは、言ってみれば広く浅く理解されるということである。 そういう形で知られるにはフリーランニングの持つ、わかりやすい見た目の魅力が有効なのだ。 もちろんフリーランニングの魅力はそれだけではないのは一応断わっておく。 それに比べてパルクールの魅力はあまりにも地味である。 もちろん高いドロップやスピード感あふれるVaultなどは比較的わかりやすいが、 それでもフリーランニングの見た目の魅力に比べると地味である。 「移動効率」というものを意識した上で見ることで、初めてその魅力がわかると言っていい。 そのような受け手側に予備知識が必要となる魅力は、 一般向けのPVやCMで必要とされることは少ないだろう。 したがって、英語で覚えやすくイメージしやすいこともあり、 今後メディアを通して広まりやすいのは 「フリーランニング」という言葉/名前であると考えられる。

次にトレーニングについての違いを考えてみる。 フリーランニングもパルクールもどちらも基礎トレーニングが大切であることに変わりはない。 ただ、実際に技術を身に付けるための「動きのトレーニング」の重要性の度合いが 二つでは違うのではないかと考えている。 身に付けるべき技術の種類、数の多さでいえば、 パルクールと比べフリーランニングは圧倒的に多い。 オリジナルの技術を容易に考案できるという点から考えても、 フリーランニングにおける動きのトレーニングは、 パルクールにおけるそれよりも重要ではないだろうか。 以前のコラムで書いた「自分の持っている身体能力で身に付けられる技術」の 種類、数がフリーランニングの方がパルクールより多いのだ。 つまり技術が身体能力の限界に達するまでの期間が長いように思うわけである。 よって「基礎トレーニング」と「動きのトレーニング」にかけるべき時間、エネルギーの比率が フリーランニングとパルクールでは異なってくるのではないだろうか。

最後に上記理由から「基礎トレーニング重視」になる傾向にあるパルクールが フリーランニングに比べて精神鍛練の要素を多く含んでいるように思われることについて考えてみる。 「パルクール」「フリーランニング」どちらも、実際にその動きを行うと 場合によっては他人の迷惑になることがある。気を付けていてもそうなる、 またそう認識される可能性が高い。それは「動きのトレーニング」でも技術の種類によっては それが危険な行為なのか、トレーニングなのかが見た目では分かりづらいため起こり得る。
一方、「基礎トレーニング」は比較的、人の迷惑になることは少ない。 なぜなら一目見てそれが何かのトレーニングだと理解しやすいからである。 基礎トレーニングをしていても、 私有地でもない限り正当な理由で誰かに注意されることはないだろう。 「基礎トレーニング」は比較的、堂々とできるのだ。

人の心というものは、自分が正しいと思っていても世間に否定され続けると 「どうせ否定されるなら正しくないことをしても一緒ではないか」と捻くれてしまう傾向がある。 逆を言えば世間に認められることをし続けると「これからもできるだけ正しいことをしよう」 と思うようになる。
そう考えると、他人に迷惑をかけにくい「基礎トレーニング」に時間とエネルギーを多く使うということは 「できるだけ他人に迷惑をかけないようにする心がけ」を 身に付けるトレーニングにもなるのではないだろうか。

最後は少しこじ付けっぽくなってしまったが、 基礎トレーニングに精神鍛練の意味を与えるとしたら こういうことも含まれるのかもしれない。

(2008/09/01)


【移動術と写真】

移動術というものを伝えるのに最も優れたコンテンツは動画である。 もし世の中に動画投稿サイトというものがなければ、 移動術がここまで広まることはなかっただろう。 また移動術の動画はその格好良さを表現する作品であると同時に 実践者にとってはそこから技術の多くを学べる教科書でもある。 しかもそれは特定の言語を必要としない万国共通の教科書である。 動画なくして今の移動術の普及はありえなかったと言っていい。

そしてもうひとつ、写真というものも 移動術を表現するのに適したものだと思う。 動画とは違う移動術の格好良さを表現することができる。 写真は移動術の一瞬を切り出して伝えることが出来る。 それは普通では見ることが出来ない世界だ。

移動術を写真で表現しようということは日本でも昔から盛んであったようで 自分が移動術を始める1年以上前、2005年初めにかつてのJPKA(日本パルクール協会)が 「JPKA Photo Battle」というフォトコンテストを開催していた。 どれほどの写真が投稿され、それらがどんなものだったのかは 記録が残ってないのでわからないが、幸運にも そのときの優勝者の写真が撮影者のサイトに残っている。
 [BreakF's/gallery/parkour]
まだ「パルクール=高所からのドロップ、フリップ」という考え方が主流だった頃のものだと 当時を知る人から聞いたことがあるが、やってることが凄い。 そして写真としても良いものだと思う。空の青さとの調和が美しい。

次に以前PKTKの写真を撮っていた写真家、たかやまのぼる氏のブログを紹介する。
 [たかやまのぼるの シャッターチャンス]
ここに掲載されている写真の多くが、 写真以外では決して表現できない移動術の姿を見せてくれている。 この視点、雰囲気を動画で表現することは難しい。 もしこれらの写真と同じ構図で、間近で動画を撮ろうとしても 動きの中のほん一部を、1秒も満たない時間でしか捉えられないため、 等倍速で再生して見る動画には有効ではない。
また印象的なのがやはり「青い空との調和」、そして「シルエットの美しさ」である。 これも写真ならではと言っていいだろう。 パルクールの写真集を出す構想もあったらしいが、 いつか本当に実現して欲しいと思う。

最後にPKTK、NaGaReの写真ギャラリーを紹介。
PKTK::PARKOUR*TOKYO / Gallery.
NaGaRe Photo 1 2
NaGaRe Hot Photo 1 2

(2008/08/27)


【環境をつくる】

数年前に比べて日本でも移動術をするための環境は良くなってきている。 その具体的な理由は以下のものが考えられる。

 (1) 各地で練習会が開かれている
 (2) トレーニング方法が確立されつつある
 (3) メディアで取り上げられることが多くなっている
 (4) 社会的な認知度が徐々に上がってきている

(1)の練習会については広く知られているだけでも東京、埼玉、大阪(関西)、名古屋の 四地域で数十人規模で定期的に開かれている。また、小さな練習会も頻繁に行われているようだ。 数年前までは練習会は特別なもので、開かれても不定期で数か月に1回程度だった。 当時は個人やチームごとに練習し、ネット上で動画やBBSを通してお互いを知るということが大半であった。 しかし、今は練習会で実際に会って知り合うという方が多いくらいではないだろうか。
また、以前は実際に会ってもお互いをハンドルネームで呼び合うことが多かったが、 最近では本名で呼び合うことも当たり前になっている。 これは移動術の存在がネットの世界だけでなく現実の世界へと広がったということだろう。

(2)のトレーニング方法に関しては、この1年でかなり変わった部分だと思われる。 まず、数年前までは「動画で見た移動術の動きを練習する」ことがトレーニングであり「移動術のために基礎トレーニングをする」 という考えが浸透していなかった。もちろんそういう考えを持つ者も存在していただろうが、 その重要性はあまり考えられていなかった。 まして動きの練習よりも基礎トレーニングの方に何倍もの時間を割くべきだとは思いもしなかっただろうし、 そう言われても実行できる雰囲気、環境ではなかった。
しかし、最近では「基礎トレーニングの重要性を感じる」という言葉をいろいろなところで聞くようになった。 これも移動術を実践していく上でいい環境になったと言えるのではないだろうか。

(3)のメディアに関しても、ここ1〜2年位で変わった環境のひとつだ。 これからも移動術がメディアに露出する機会が増えるだろう。 最初は海外のトレーサーが注目されることが多いと思うが、 必ず日本のトレーサーも取り上げられる機会が増えるはずだ。 自分が各地で見てきたトレーサーの中には、 それに応えるだけの能力・技術を身に付けている者や そうなり得る可能性のある人たちがいる。
将来的にはその道で生活していけるトレーサー、つまりプロも生まれるかもしれない。 そうなれば、生活や仕事の心配をすることなく移動術に全力で取り組める環境ができるはずだ。 その環境がまた素晴らしいトレーサーを生み出すことにもなるだろう。

(4)の社会的認知度はもっとも重要なことと言える。 現在でも「パルクール」「フリーランニング」という言葉は一般的にはほとんど知られていないと言っていい。 それでも以前よりは知られてきている。TV、CM、PVの映像メディアや新聞、雑誌などの紙媒体で紹介されることも多くなっている。
そして大切なことは、どのような形で社会に認知されるかということである。 移動術は一見すると、ビル間のジャンプや高所からのフリップなど派手な動きが印象的でそこばかりが注目されてしまう傾向がある。そうすると「移動術=危険な行為を楽しむ特殊なスポーツ」と認識されかねない。
しかし移動術の本来の姿は「基本的な筋力トレーニング、移動術に特化した基礎トレーニング、移動技術の習得」を主とした日々のトレーニングがあって初めて成り立つものである。 その重要な背景も同時に社会に認知されていかないと、移動術にとっていい環境になるとは言えない。むしろ危険なスポーツとしてだけ広く認知されてしまったら、今よりもやりにくい環境になる可能性も高いのだ。

最後にもうひとつ重要なことがある。現在、日本には移動術のトレーニングをゼロから教える教室的なものは存在しない。もちろん各地の練習会でアドバイスをし合うことや、初心者向けのイベントはあるだろう。しかし、確立された講習メニューに沿って上級者が指導者となり初心者にゼロから教えるという環境はないと言っていい。この教室という存在はかなり重要なことだと思う。社会に良い形で広めるため、基礎トレーニングの重要性を広めるため、敷居を低くし実践者を幅広く増やすため、全体のレベルを底上げするために必要なことだ。もしかしたら将来的に教室を経営するということも可能になるかもしれない。

移動術をとりまく内外の環境はこれからどんどん変わっていくだろう。実践者の増加、メディア露出、全体/個々の考え方、組織/個人の繋がり、・・・。その全てをコントロールできるわけではないが、ひとりひとりの一つ一つの考え、行動でその環境が作られているということは意識していきたい。いま日本の移動術は発展途上にあり、現在それに関わっている者たち全てがその歴史を作っているのだから。

(2008/08/19)


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