【楽しさを持続するために】 人はなぜ移動術を辞めるのか? 自分も一年近く移動術に全く関わらない期間があった。なぜ辞めるのかは個人によると思うが、以下の2つが理由となる場合も多いのではないだろうか。 (1) ある程度技術が身に付いたことで伸び悩み、飽きてしまった。 (2) 続けられないくらいの大きな怪我をしてしまった。 (1)に関しては前回のコラムでも触れたように、自分の身体能力で身に付けられる技術が限界に達してしまった場合だ。 始めたばかりの頃は、今までやったことのない動きをすること、技術を身に付けることが新鮮で楽しかったに違いない。 そして、いろいろな技術を身に付けて、このままどこまでも上達していくように感じていたことだろう。 しかし、ある程度までいくと、技術が身体能力の限界に達し伸び悩んでくる。 そうすると、自分の限界はここまでで、動画で見たようなすごい移動術は身に付けられないのだと感じてくる。 そして今まで新鮮で楽しかったものへの興味が薄れ、最終的には辞めてしまうのではないだろうか。 (2)の怪我に関しては、(1)で超えられなかった限界を無理矢理もしくは知らず知らずに超えてしまった場合に起こるのだろう。 「移動術は人間の限界に挑戦するもの」という言葉もあるが、これは決して「自分の限界を超えて出来もしないことに挑戦する」という意味ではない。 私は「自分の身体能力の限界をどこまで高められるか、そしてその身体能力で出来る技術を身に付けていく」ということだと思う。 限界は超えるものではなく、高めることでさらなる技術を身に付けることが出来るものだ。 だから移動術をいつまでも新鮮で楽しく、そして安全に続けていくためには技術の基礎となる身体能力を高めることが必要なのだ。技術の伸び悩みを感じたり、怪我をしてしまった時こそ、基礎トレーニングの意味をもう一度考えてみるといいだろう。 (2008/08/07) | |
【結局は身体能力。ただし…】
移動術が上手い人というのは、結局のところ身体能力が高い人である。 ただ、そういう人には2種類いる。 ひとつは移動術を始める前から持っている身体能力(ポテンシャル)が高い人だ。これは生まれつきの才能や移動術以外のスポーツで培った身体能力と、移動術の技術を身に付けることで上手くなる人である。 そして、もうひとつが移動術に適した基礎トレーニングをすることで基本的な身体能力を高めることと、移動術の技術を身に付けることで上手くなる人である。 前者はどちらかといえば「自分の持っている身体能力で何が出来るか/何が出来ないかを知る」行為と言えるのではないだろうか。 つまり、出来ないことが出来るようになるのではなく、今までやらなかったことをやるようになる。そんなイメージだろう。 後者は全く逆で「自分の身体能力を高め、やっても本当に出来なかったことを出来るようにする」行為だと言える。 経験が浅い場合は、前者の方で上手い人が多い。しかし、長く続けていくと後者の方が明らかに上手くなってくる。 なぜなら、基礎的な身体能力が上がり続けるので、結果として身につけられる技術も増え、上達し続けることができるのだ。 一方前者は、もともと持っていた身体能力で出来ることの全てをやるようになると限界に達して、その上達は止まってしまう。 だから本当の意味で出来ることを増やすこと、基本的な身体能力を高めること、基礎トレーニングを続けることが重要なのだろう。 (2008/08/06-07) | |
【PKTKのはじまり】 PKTKはいつ、どうやって出来たのかということを人に聞かれたことが何回かある。 この質問に対する明確な答えを自分は今のところ持っていない。 他のメンバーも個々の考えは別として、共通の認識というものは持っていない。 おそらく明確に決めておく必要がないということだろう。 ただ、「はじまり」「きっかけ」の候補はいくつか思いつくので、私の考えとして時系列順にあげてみる。 ただアルティメットOFFより前は関わっていないので曖昧情報。
2004年以前・・・
東京OFF
UF来日
川崎体育館
アルティメット主演来日イベント
アルティメットOFF
関東定期オフ
マドンナPV
初代PKTKロゴ
キメワザ
関西PK巡礼
キメワザ賞品山分け
ゆる神、流、ステバイが来る
PKTK誕生
参考: | |
【Power is nothing without control】 自分はあまり海外の動画を見ないが、今まで見た中で気に入っているもののひとつがこのタイトルの動画だ。内容も素晴らしいが、なによりタイトルに魅かれた。「Power is nothing without control」、直訳すると「制御できない力には価値がない」といったところだろうか。元は「ピレリタイヤ」のパフォーマンスと安全性を訴求したキャッチコピーらしいが、さらに元があるかもしれない。 移動術において、最も重要なことの一つが動きのコントロールである。それには動きの反復から得られる感覚と、もちろん筋力も必要だろう。ただその筋力とは決して重い物を持ち上げたりという目的のものではない。様々な状況で自分の体重/重心を自在に操るための筋力だ。その負荷は主に重力と慣性によるもので、移動の速度(落下速度も含む)でその負荷は増減する。 移動の中で自分が思ったとおりに体を動かし、必要なときに必要なだけの筋力を使う。必要以上の筋力を使う移動は、時として非効率的で美しさも伴わないものになってしまう。例えば、レールを越えるときに必要以上に高く跳ぶ必要は無い。そのレールの高さに対して必要なだけの筋力で必要なだけの高さで跳べばいい。 また、Precision Jumpと呼ばれる技術はその最たるものだと思う。3m以上といった幅を跳べることが重要なのではなく、1m00cm,1m01cm,1m02cm・・・をそれぞれ1cm単位(場合によってはさらに細かい単位)で正確に安定して跳べることが重要なのだ。 そういう動きのコントロールを身に付けることで移動は効率的かつ美しくなる。 (2008/07/15) | |
【パルクールのもつ美しさとは何か】 自分がパルクールというものを知った頃、正確には2006年4月だが、その頃はまだパルクールとフリーランニングの区別もほとんどなく、仏語と英語の違い程度にしか思われていなかった。 その頃に書かれたパルクールを説明している文章をみると、「速く移動」という言葉とともに「美しく移動」という言葉が使われている。これがどこから来たものなのかはそれ以前のことを知らないのでわからないが、それなりに浸透していた考えのようだ。 今ではパルクールで「速く移動」することはあっても、「美しく移動」することはどちらかといえばフリーランニングの範囲で含まれるものという考えが広まりつつある。 では、パルクールは美しくはないのだろうか。そんなことはない、洗練されたパルクールの効率的な移動はとても美しい。そしてその美しさはアクロバットのようなフリーランニングの範囲でだけ得られる美しさとは違うものだ。 PK/FRに限らず、「美しさ」には大きく分けて2種類あると私は考えている。 一つ目は、美しさを求めた結果として得られる美しさ。例えば、街のイルミネーションや女性のメイク/ファッションの美しさがこれに含まれる。どちらかというと元あるものに何かを加えることで得られる派手な美しさが多い。 二つ目は、ある機能を極限まで高めた結果として得られる美しさ。例えば、速く走るために作られたレーシングカーや人を斬るために作られた日本刀などがこれに含まれる。またアスリートの肉体・動きの美しさもこれに含まれる。これはどちらかというと元あるものから無駄なものを削ることで得られるシンプルな美しさが多く「機能美」と呼ばれる。 パルクールのもつ美しさは後者で、それは「効率的な移動」という機能を極限まで高めた結果として得られる「機能美」だ。美しさのための美しさは求めないが、「効率的な移動」を模索するときに「機能美」という視点から動きを考えることも重要になってくるだろう。 (2008/07/15) |